伝承に興味はある。
柳田国男は、それ関連の昔の学者というか、研究者というか、作家らしいということだけを知っている程度。
いつかは読んでみたいな…とは、心のどこかで小さく思っていたら柳田国男をテレビニュースで取り上げていた。
なんでも、柳田国男は兵庫県の福崎町出身。
ここでの生活で「なぜ、農村は貧しいのだろう?」という疑問を国男少年は持ったという。
で、その福崎町では町おこしのイベントとして、妖怪のオブジェを随所に展示するイベントをしているという。
それなので、柳田国男とは妖怪が好きな陽気なおじさん。
いってみれば漫画家の水木茂の師匠みたいな人。
そんなイメージを勝手に持って、読んでみるのは後回しになっていた。
5年ほどして、この『木綿以前の事』を目にして手に取ってみた。
が、木綿がどうしたのか、なんで木綿なのか、そもそも木綿とはあの木綿のことなのか、まったく見当がつかないまま読みはじめた。
どのくらいだろう。
久しぶりに、心から「先生!」と呼びたい人に出会った気がした。
柳田先生と呼びたい。
「先生!」と呼びたいなんて、久しぶりというよりも初めてかもしれない。
だいたいにして。
先生と呼ばれてる人間にはロクなヤツがいない、と信じている悲しい自分なので、そうなったことに少しの驚きがある。
あとがきで、柳田国男は東京大学を卒業してから農政の官僚をしていて、なかなかの学者でもあるのを知った。
妖怪が好きな陽気なおじさん…ではない。
この本に限っては、妖怪など一言も出てこない。

文庫本|1979年発刊|310ページ|岩波書店|1938年発表
どこがどうおもしろいのか?
伝統や文化をぶった切っていく

木綿以前というのは、明治以前を差す。
明治になって、工業製品として木綿が大量に出回って日本人の生活は変わった…と柳田先生は説いていく。
1938年(昭和13年)に出版されたこの本は、そのような立ち位置で日本人を捉えて、一般にいわれる常識をばっさりと斬って捨てる。
既存の伝統や文化もぶった切っていく。
呻ってしまうばかりだった。
たとえば。
日本人の主食は白米…という誰かの言には、そんなのは明治になってからの新しい習慣だと反撃、いや、解説をする。
今は通常になっている白米食など、昔でいうと「粥」であって元々の主食ではない。
白米食が、さも古来からの主食であるように食べるようになってから脚気が流行ってしまった。
白米が主食になったのは、ただ、白くて柔らかいものを好む情である…と、へそ曲がりの自分にとっては気持ちいい。
明治など最近のことだと何度もある。
だいたい年配者が『伝統』だの『文化』というのは、明治からはじまったものが多い。
ただ、若い頃を懐かしがっているだけである、と柳田国男は説く。
国男先生、機嫌がわるいのかな…と思うくらいに、既存の伝統や文化をインチキだといわんばかりに、容赦なく暴いていく。
女性に参政権をという戦前の主張

繰り返すけど、この本は1938年(昭和13年)に出版された。
まだ男尊女卑もあった時代だろうけど、柳田国男からは微塵も感じさせない。
まえがきには、題名は『女性読本』としたかったとある。
文明で女性の負担は減ったが、いかほどに女性の采配も減らしたのか。
現代は、いかに女性の権利を奪っていることか。
木綿以前の社会では、女性がいかに重要だったのかとぶったぎって、…いや、解説している。
女性の有能さも、かなりのページで説いている。
女性には、親切な向学心がある。
男性は生産には適しているかもしれないが、女性は分配に適している。
それなので、女性の参政権は必要だ。
女性の優しい心配が、結局は政治の上に現れてくる。
それは願うところである、と熱い。
このとき、柳田国男は64歳。
で、子供は4人とも女性で、孫も4人とも女性と明かしているのは、実体験だというのを強調したいのかもしれない。
文献と実地調査が根拠となってる

根拠もふんだんに示す。
『三省録』『庭訓往来』やら、そのほかにも聞いたこともない文献がたくさん出てくる。
ただ、文献には民衆の生活は記されない。
方言や伝承に民衆の生活が残っている。
そのような考えで、全国で実地で調査をしている。
東北の山形、秋田では、これをこう言う。
栃木では、これをこう言う。
島根では、これをこう言う。
北飛騨から能登にかけては、これをこう言う。
伊豆、新島では、これをこう言う。
信州のアルプス地方では、これをこう言う。
九州の天草の島々では、これをこう言う。
北九州では、これをこう言う。
地元に残る言葉を、こと細かに挙げていく。
ひとつの県でも、山際にいくとこう、山中ではこう、海際にいくとこう、と細かい。
とくに長野県の南部地域の方言に細かいなとは感じていると、旧姓は松岡国男で、26歳のときに長野県飯田市の柳田家の婿養子となったとあとがきあった。
現在、飯田市には、東京の成城にあった柳田国男の書斎が移築されて保存されているという。
1度はいってみたい。
松尾芭蕉の研究者でもある

柳田国男は『俳諧七部集』を30年来の愛読書と挙げている。
松尾芭蕉の俳諧に、民衆の生活が多く残されているという。
ちなにみ俳諧とは、連歌というのか、回し詠みというのか。
たとえば「松島や、ああ、松島や、松島や」と詠んだあとに、2人目が「なんとかかんとか」と受けて詠み、さらに3人目が「なんとかかんとか」と続けて詠む。
明治になって正岡子規が俳句にしてしまったと、不満気味に書いてある。
髷への疑問がとけた

疑問がいくつも解けていく。
ひとつ挙げれば、立派な髷への違和感。
大河ドラマでも時代劇でも、なぜ江戸時代の人々は、武士から町民から農民までもが立派な髷を結っているのか?
ボロボロの着衣でも、食うために必死の生活でも、なんで髷だけはしっかりと結っているのだろうか?
そんなにも、全員が全員とも髪型にこだわっていたのか?
この素朴な疑問に、柳田先生はズバリ回答してくる。
立派な髷などは、屋内でしょっちゅう儀式をしている人しかしてなかった。
働いている民衆は、笠や手ぬぐいなどの被り物をしていたから、簡素で簡単な髷だった。
一時に流行した浮世絵に描かれた髷を、さもすべての人々がしていたかのように、多くの人が勘違いしている…と。
国男先生がそういうならば、そうなのだろう。
合理的に考えてもそうだよなと、すんなりと疑問が解けた。
ネタバレまとめ 柳田先生風
人々の暮らしは書物には残ってない

江戸から明治へと時代が変わっても、そのまえには安土桃山から江戸へと時代が変わったりもしたが、いずれにしても農民の暮しは一変するわけではない。
作業をして、作物を得る、そういう暮しは続いていて、そういった営みは徐々に変わっていく。
それらの経緯は、書物には残ってない。
俳諧に形跡がある。
伝承や方言にも形跡がある。
日本人の魂は最近になってできたのではない

このまえ「日本人の魂は、畳で正座をするから養われたのですよね」と同意を求められたが、返答に困った。
畳なんてものは明治になってからだ。
もともとは日本人はあぐらだったのだ。
明治になって木綿の着物が普及したから正座になったのだ。
ついでにいえば、床の間だって明治になってからだ。
もともとは寝床が変形した造りが床の間であって、いってみれば、現代の人々は寝床に布袋さんなど飾って喜んでいる。
日本人の魂はそれ以前からあるのだから、畳も正座も日本人の魂には関係ない。
日本人は麻を身につけていた

昔の衣類には3種類がある。
晴れ着、普段着、作業着だ。
晴れ着は、町で買い揃えた。
しかし、普段着や作業着は自家製だった。
木綿が普及する以前は、麻を栽培して、生地にして、各家庭の女性が特徴をつけて作っていたのだ。
都合のよいように自由に変えて使っていた。
湿った日本の気候には、木綿よりも麻布だ。
麻布を長いこと日本人は身に着ていたのだ。
それが明治になったとたんに、一朝にして、すべてが木綿となって工場の供給となった。
大量に供給されて、古着がたまって、それが作業着となった。
だいたいにして、着物ほど働くのに適してない衣類はない。
動きにくいったらありはしない。
屋内で儀式に列する少数の男女以外、あんなブラブラとした袖を垂らした着物で歩いていた者は1人だってありはしない。
古来の日本人は洋服と同じものを着ていた

繰り返すが、みんながみんな着物だったのではない。
筒袖、筒袴という作業着もあって、これは上衣と袴がちゃんと二つに分かれていて、手首にも足首にも動きやすく細く作られていた。
股引(ももひき)とはズボンである。
古来の働く日本人は、洋服に近い衣類を着ていたのだ。
いま『ヨウフク』などといってありがたがっているが、それとほぼ同型の衣服を最初から着ていたのである。
いちばん都合のわるいものは靴である。
日本のような暑くて蒸れる国で、毎度のように水の中に入って働かなくてはならない国では、特別の履物がなくてはならない。
こればかりは、古いものがすたれない。
新しいものが発明されてない。
これからは、仕事に都合のよい靴を考え出さなくてはならない。
木綿の着物の功罪

木綿の着物を女性が着用することで、体の曲線を剥き出しになって、生活が知らず知らずのうちに味わいがでてきて細やかになってきた。
そうした一方で、髪型は複雑になってきて、実用的な笠も手ぬぐいも被れなくしてしまった。
木綿の着物が、女性が歩くのも内股にした。
着物の裾がめくれないように内股になったが、安土桃山時代は裾を捌くためにガニ股だった。
内股で歩くなど芝居の中のことであって、一時のことであって、多くの女性が常にそうだったと、多くの人が勘違いをしている。
割烹着も、明治になってから発明された。
羽織だって、つい最近になって流行ったものだ。
タスキ(襷)だって、古来は首飾りで使われていて、いってみればネクタイのような装飾品だった。
明治になってから、ちょうどいい紐があったという具合でタスキ掛けに変化しただけだ。
古来から、日本人は着物で生活をしていたと思うのは、顔を赤くして恥ずべき勉強不足である。
瀬戸物は幸せにした

木綿に似た恩恵をもたらしたものに、サツマイモが挙げられる。
サツマイモのおかげで、ひもじさの辛抱がしやすくなって、結局は子孫の困難を長引かせた。
サツマイモの誘惑を退けるのには、人が神であってもできないことである。
あと、白木の椀は使いづらい。
歪んで汚れて使いづらい。
そこへ、真円の瀬戸物の茶碗というものが入ってきた。
これはいい。
安くて光がある。
それが幸福となった。
白米食など米のジャムである

おせち料理など形だけが残っている。
勝栗や、のし鮑などは、昔はハレの日のごちそうだった。
ごちそうだったので、今では形だけが残っていて、だけど食べるには堅すぎるし、もはや食べ物かどうかもわからない。
今では普段の日のほうがごちそうなので、かえってハレの日の食べ物のほうが質素になっている。
だいたいにして、我々が主食にしている白米を “ 飯 ” だとかいうが、これは昔でいうと “ 粥 ”である。
“ かた粥 ”というものである。
昔は、甑(こしき)でふかしたもの、今でいうと赤飯のようなものを “ 飯 ” といった。
もちろん、毎日こんな食事をするのは作るのが大変なので、月に1回のハレの日しか食べなかった。
白米食が普及したのは、精米技術の向上もある。
竃(かまど)の造り方と関係があるのも確かだし、労力の供給の方法の変化にもよるであろう。
が、主たる原因は趣味の移動である。
白くて柔らかいものを好むという、ただの情である。
わけがわからない白米食のせいで脚気も増えた。
舌きり雀の話を思い出すような米のジャムには感心しない。
そもそもが、1日に3度の食事というのも、現代になってからの話である。
古来は、朝と夕の2度のみ。
力仕事の日に限って3度は食べた。
それが栄養学の観点からかなにか知らないが、朝寝坊まで必ず3度は食うべしとなると、飯を食うのにせわしくって困る。
力仕事以外では、朝夕の2度の食事でいい。
そうすれば、残りの時間をもっと有効に使える。
伝統は今後の人に任せたほうがいい

老人がしきりにいう伝統だというものは、いわば彼らの趣味だったり、その当時の話である。
「古いしきたりで改めるわけにはいかん」と力んでいるもののなかでも、明治からはじまったものがいくらでもある。
古くから行なわれているものなど、そうたくさんはない。
我々の生活とは、今も昔も絶えず変わっているのもの。
神聖なものとして保つべきものは、今後の人々に任せたほうがいい。
大事なは、国民の進歩である。
国民の進歩のほうを考えたほうがよい。
・・・2度3度と読み返してみても。
その度に発見がある本だと思われた。










